昭和47年7月31日 朝の御理解 (末永信太郎)
御理解第2節
先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない。
先の世までも持って行かれ、子孫までも残る、とこう。どちらにしても、ほんなこっじゃろうかと言いたいところです。ね。先のようなことが分かるわけではなし。子孫までもと言うても、いわゆる、自分が亡くなった後に子や孫に伝わるということを、この肉眼で確かめるわけにもいけないし。言うなら、まあ、こんなにあいまいなものはないと思うですね。お互い信心をして、しっかり、一つ神徳を頂いて、神様のご信用を頂いて、そして、あの世にも持って行けることのために、または、可愛い子や孫のために、ね、子々孫々、その徳が残されると仰るのだからと、素直に信じればそれで良し。
けれども、信じようと思うても信じられない、目に見えないこと。あの世のことも分からないし、この世に残ると言うたところで、もう自分がいないということであるから、見事に神様から騙されとったというなことになるかも知れん。ですからもう、本当に信心すれば、誰でも受けることが出来る、みてるということがないという、その実証、事実といったようなものをね、日々生活の上に実証して行く、証を立てて行くというような信心生活に入らなければ、なるほど、これならば、持って行けるぞ、と。
なるほど、これならば、残しておけるに違いはないといったようなものがね、感じれれるところまで、お互い信心をしなければ、例えば、このような素晴らしいことがです、あいまいなことのようになって来るわけです。あいまいなようなことになって来るから、信心修行が疎かになり、信心修行が、ただ形の上の言うならご利益信心になってしまうわけです。ね。
これは、何と言うても、心に受けるもの、心に感ずるもの。そして、それが形に現れて来るものがおかげ。もう、金光様の御信心は、もう、そこのところを頂かないとね、本当、値打ちはないと思う。心の上に頂かずして、ただおかげ、おかげと言うて、おかげを追うて、なるほど、それは頂いたにしましても、思うたことが成就致しましてもね、それは、私は自分の心の中に、これならば持って行けるぞ、といったようなものが生まれて来ないと思うんです。
これならば、なるほど、残しておけるだろうといったような、確信に満ちた信心生活が出けないと思うんです。ね。私どもが、日々、信心生活をさせて頂く者はです、どのような場合、どんな事柄であっても、ね、神様の御働きの中にあってのこととして、それを確信を持って受けて行き、頂いて行き、それを徳にも力にも、おかげにもして行くという姿勢でなからなければならんのですからね。
いよいよ、夏期修行も今日で終わり、一月間、皆さんが一生懸命、まあ、いわば頑張られたわけです。信心に修行は付き物。ね。その修行に力が、徳が付き物。それに、おかげは絶対なものとしての付き物。信心に修行は付き物。その修行におかげが付き物とこう言うとね、分かりがいいようですけれども、それでは今日、私が言う先の世までも持って行かれ、子孫までも残るといったようなことを、あいまいなものを、あいまいに頂かず、そこを確信して頂けるというところになって来ない。
この一月間の修行で、こういうような事が身についた、というもんでなからないけん。この一月間の修行で、本当にやはり修行をさせてもらわなければ分からないことが分かった、と。それが、身に付いたのです。まあ、一月間はどうでんこうでん、いっちょ一生懸命参らせてもろうて、このことばおかげを頂かんならんから、なるほど、おかげを受けるにしても、それだけではね、結局あいまいなことになって来ると思うです。ね。心に確かな物を積み重ねて行くという信心。ね。
信心に修行が付き物。その修行には必ず力、言うならお徳。まあ、お徳と言うと大変ですから、まあ、力ということにしましょうかね。その力の積み重ねがお徳なのですから。ね。または、光と言うてもいいでしょう。今度の、光を頂いた、と。ね。心がいわば今まで分からなかったことが分かったということは、やはり光に映し出されるものなんです。
今日は一時の御祈念の後に、4~5人の方が体験発表をなさるそうです。してその後は、まあ、恒例の、まあ、おかげは側という、そのソバを、まあ、(一すり?)ずつでも皆さん頂いて。ね。信心修行の後に頂いた。いわゆる、力、またはお徳によって、もう、おかげは側にあるというようなことで、必ずあのソバをね、皆さん一緒に頂くわけです。
ですからその、修行が終わったからやれやれという、もう、おかげは側じゃろうと言うとっても、側までしか来とらんのであってね、まだ実際、自分に受けたということじゃないのですから、その修行が終わった、その後を大切にしなければいけんです。ね。
そこを、それぞれの信心工夫をなされなきゃいけません。私は今日、控えで、まあ、いろいろ思わせて頂いておる中に、本当あの、椛目の泰子のことを思うた。そして、まあ、一般で言う死んだ者が一人負けとか、または、御霊の世界に入ったと言うても、御霊の世界が分かるわけではなし。
魂と言うても、これが魂だと言うて分かるわけでもなし。何とかして、私が感じておるところまでは行かなくても、私が信じておるというところまでは行かずとも、なるほど、御霊の世界があるんだ。そのためには、いわゆる魂の世界があるんだ。だから、そのためには、本気でこの魂を清めておかなければいけないなと分かるところまでは、皆さんに分かってもらいたいもんだなあ、と思うたです。ね。
何とか、いわば、ね、死んだからと言うて、それはもう、それで終わったと言うのではなくて。ね。例えば、おかげを受けておる御霊。ね。その人の言うなら、生前の魂の度合い、これは、年をとったから、若いからということじゃない。ね。そしたらね、私が御神眼に頂きますのが、あの、(うかい)何とか、うかいなんか致します、屋形船。ね。その屋形船を心眼にこう頂いてね、その屋形船が、この無という字、無いという字ですね、無。
無という字が、ちょうど屋形船になっておるような感じで頂いたです。そして、あの赤い提灯がこう、四つ下がって、そして、その四つの提灯が川に、ね、その、やっぱり四つてんてんてんと、こう、映じておる、映っておる。それがちょうど、無という字に見える。こういうような感じで頂いた、無という字を。
はあ、無という字があんな素晴らしい屋形船というような感じ。下にこうこう書いとるのは、これは波です。無という字はね、こう、屋根がこうあって、中にこう、そして、中のこう棒をね、てんてんてんと、ちょうど赤い提灯が屋根のところにこう、付いておるような感じで頂いて、その提灯の四つがね、下のこの水に映っておるです。もう、それは何とも言えん、その、もう素晴らしいその、何と言うですかね、情景なんですよ。無ということは、亡くなるということだろう。
けれども、お互いがね、この世は徳の船に乗って渡れと、久留米の初代は果せられたということですけれども、この世ならずとも、やはりあの世でも徳の船に乗っておられるおかげを頂きたいということです。2~3日前に、私が皆さんに御祈念の、御祈念のしぶりがいけない。もう少し、ね、もう、一心不乱、言うなら無我夢中。ね。その一心不乱の例えば御祈念をするからこそ、ね、御祈念の一時ではあるけれども、神様とピッタリ交流をするところの一心が出るのだ。
無我夢中で一生懸命やるから、無我の世界。いわゆる、我のない世界というものが御祈念の間だけでも頂けるのです。その心の芽を育てて行くのが信心だ、と。その心の芽も出ない、まあ、一心の心でない。無我の心というのは、こんなもんだということも分からずに、ただ、御理解ば有り難そうに頂いたところで、育て様がないじゃないか。
そういう心を有り難い御理解によって、いよいよ、今日はこの手で育てて行こう、今日はこの手で一日を信心生活させて頂こうというのが御教えなんだ、御理解なんだ。それで、一心不乱の御祈念なしに、御理解だけポカンと頂いたからって、どこを中心に育てるか。自分の心を育てる以外にはないのだもの。ね。
皆さんが、例えば一生懸命に大払いを奏上させてもらい、御祈念をさせて頂いておられる時こそが、無我のいわば境地なんです。ね。だから、その気持ちがどのように尊いものかということを、ただ、そろそろ人ん御祈念しよるとどん、こうやって見ながら御祈念してです、それこそ、心の中に頭の中にただ雑念だけしか湧いて来ないだろう。ね。それは、育てようがないじゃない。
神様へ向かうということは、そういう意味で神様に向かうということは尊い。どうでも、だから拝むということは信心に付き物であることが分かります。ただ、拝むと言うても、ね、一心不乱とか無我夢中というように、一生懸命の信心。自分という空しゅうするまでにです、おかげを頂いて行く。そして、それを育てて行くというところに、信心があるのであり、いわゆる、修行があるのです。
昨日、久しぶりで日田の麻生さんが御参りになりました。まあ、いろいろと、今度の身の振り方についてお願いがあった中に、何とかという、東京とか大阪、それから九州でも大分か何かにあるそうですが、まあ、言うならば何とかと英語で言わっしゃったから、私は記憶してません。いわば、身の上相談。ね。
それも、場合には医学的に、場合には科学的に。あるいは、この、何て言うですかね、精神何とかち言いよんなさいました。そういうような、言うならばあの、現代人にでも例えば合点が行けるような説明を持って、色々な人の難儀といったようなものをね、その、解明してあげるわけです。そして、貴方は右になさったが良い、左になさったが良いといったようなことをです、その、福岡辺りで開きたい、とこう言われる。
もちろん、私はあの、催眠術をなさいますからね、だから、それも加味して、それも加えてやっている。けれども、その根本になるのは、どうでも合楽の親先生が中心にならなきゃ出来そうにありませんけれども、という話でした。なぜ、その合楽の親先生が中心にならなければならないか、ということはです、私どもが勉強して来た色々な、いわゆる、目に見えない世界、不思議な世界。
ね、の例えばその事柄をです、日常生活の上に現しておられる人ということだ、と。私の知った人に、こういう心の状態になったら、こういう言うならば形になって現れて来るんだ、おかげが受けられるんだという実証しておる人が実際におらなければです、ね。ほれで私が、昨日でしたか、一昨日のあの昼の御理解のそのことを聞いて頂いたんですけどね。
いわゆる、難儀というものは尊いものだ、と。ね。金銭で難儀を不自由した人のところでは、金銭関係の問題で助かる人が多いし、根限りの病気をした人の教会では、教会長がそうである場合は、病人がどんどん助かったりするし、人間関係でもう、悩みに悩み、苦しみに苦しんで、そこんところを信心でおかげとして受け抜かせて頂いた人んところでは、人間関係で助かるような傾向があるんだ、と。
理屈は同じなんだけれども、自分がいわゆるわが身の苦難を知りながら、人の身の苦難を知らぬことと仰るあのこと。ね。自分がその苦難というものを、人間関係というものはこんなに苦しいもんだということを、だけれども、それが実は神愛であったと分からせて頂いた。くふくして、その行ったところに助かるのですから、本当を言うたら麻生さん、あなた自身が現在の難儀から、それをくふくしておかげを、手本を示しておからなければ、本当の助かりになりませんよち。
ですから、私は親先生というものが根本なんですよ。私は出けない。ね。だから、勉強をしておるから、私はその理屈はよく分かっておる。けれども、なら、実際にそれを行の上に現し、おかげの上に現しておられるのは、合楽の先生以外にはないのだと、現在。
ずいぶんの霊能者とか、いろんな、いわゆる千里眼的な人ともずいぶん、それこそ、もう、日本中にそういう人があると言うたら、わざわざ尋ねて行って勉強した。けれども、ちょっとした不思議は見せるけれどもです、その人の例えば日常生活がだらしがなかったり、お金でしか動かなかったりといったような、もう、幻滅を感ずるようなことだけにあったのに、たまたま、自分の難儀なことから合楽に御神縁を頂いて、ね、合楽の教会長であるところの大坪聡一郎という人こそ、私が、ね、いわゆる色々勉強して来たのを、もう、地を持って行っておる人だという風に核心されたと、こう言うのです。
だから、けっきょく私がそういう風な、例えば商売を御仕事をはじめたにしても、けっきょく、確信を持って人に伝えられるのは、親先生のことからしか確信を持ってのお話が出けないだろう、というような意味のことを言っておられますように。それを、んなら、どういうようなことかと言うとですね、なら、私が今日、例えば昨日なんかでも、あの朝鮮人参の御理解を頂きましたね。
そしたら昨日はね、あっちこっちから、朝鮮人参を頂きました。ほれでまた、秋永先生が帰る前でしたから、高橋さんと4人で、私はもう前からずいぶん頂いたけど、皆人にあげてしまって。けれども、なら、いっちょどげなもんか、いっちょ頂いてみろうかのち言って、このくらいなビンが2500円もするとです。ね、値段が書いちゃる。そすと、もう一つの値段書いちゃるばってん、それよりも良いもんだということです。それはもう、見事な箱に入ったね。
それを昨日、あのお、頂いたところが、とっても何と言うですか、なるほど、これなら効くじゃろうと言うごたる味がするですね、朝鮮人参っちゃ。例えば、んなら、昨日、私は朝鮮人参のお話をさせて頂いたら、もう、昼には朝鮮人参を私が頂いとる。ね。もちろん、朝鮮人参ということを、朝参りといったような意味で頂いたんですけどもね。いつの場合でも、そういう裏付けがある。
いわゆる、さっきから申しますように、実証しておる、日々。ね。そういう証を立てて行っておる、日々。だから、ははあ、これならばあの世にもなるほど持って行けるだろう、これならばなるほど、子孫にも残るはずだというものを、私は日々感じておる訳なんです。今朝も、私は3時半に控えに出らせて頂いて、フッと自分で思わせて頂いた泰子の死についてですたい。ね。本当に若死にであった、ああ、残念であった。
ほんに、死んだモンが一人負けといったような意味のことを聞くにつけてもです、そんなら御霊の世界で、なら泰子の御霊の世界がどのような状態にあるかといったようなことでも、皆に分かってもらいたいなあ、と思うたら、思わせる方法はないもんだろうかと思うたら、今言う、これを頂いた。ね。
無という字。その無という字が、ちょうど屋形船の形になっておる。こう、棒を引いたそれが、四つの赤い提灯に見え、下のてんてんが、ちょうどその彫心の四つの光が川間に映っておるという、もう、何とも言えん情景。もう、亡くなっておるけれども、徳の船の上にある。
そして、私は短かった25年の泰子の生涯を思うんです。私が一緒に、なら、自分の子供と同じに一緒におかげを頂きましたけれどもです、この人が腹かいたちゅうのを見たことがないです、私は。ね。例えば、今日の一時の御理解、一時の御祈念には、ね、わが心の角でわが身を打つこと、ということが今日一時に頂くんです。御理解に、バラスの入った道を裸足で歩くようなもん。信心という靴を履けば、楽に歩けるということ。円い玉子も切り様で四角、ものの言い様で角が立つ。
こういうような時に、角の立ったものを聞いたことがない、私は泰子の場合。ね。例えば、生涯が短いとか長いじゃないです。もう、それこそ80になったっちゃ、90になったっちゃ我欲ばっかり言うちから、コンニャク婆に言うごたる定評のある人が極楽に行けるはずがないです。ね。
なるほど徳の船に乗っておるなあ、ということをです、私は今日感じ、なるほど、この世でも徳の船に乗って渡らなければいけないが、あの世でも同じ。こういう徳の船に乗ってのおかげを頂けれることのためにです、魂を清めとかなければいけない。清めるからこそです、腹も立たなければ、ね、言うならば、それこそ、もう、こうバラスの石をこう割った。そのバラスの道を裸足で歩きよるようなもんですよ、もう、年中腹ばっかり立ててから生活しておる人は。痛い、自分自身が痛い思い、痛い思いをせなきゃなりません。
ね、それこそ、もう、円いたまごでも切り様では四角なんです。おかげ頂いて御礼申し上げねばならんことに、悲しんだり、腹を立てたりしておるなら、こんな馬鹿らしい生き方はないけれども、そういう生き方を体得しようとしないからです。ね。
教祖金光大神は、そういう生き方を示されたんです。ね。そういう中にです、私どもはです、自分の心の上に人が腹かきよりなさって、どうしてあげん腹かきよんなさっじゃか、あげなよかお方ばってんちゅうごたる頂き方を、これはもう、あの人達親子そのような感じですよね。人が、こう悪口言いよると、あげんよかお方が、どうしてあげん(身の?皆の?)悪う言いなさっじゃろうかちゅう風なことをいつも言うんです。言いよったが、私は、そりゃ一緒生活しとるから知ってます。なるほど、極楽に行くはずだ、徳の船に乗っておるはずだということです。
皆さん本当に、わが心の角でわが身を打つ。自分の心次第である。ね。わざわざ、バラスの入った道がそこにあってもです、信心という靴を履きゃあ、楽に歩けるのです。それを、自分のただ我情我欲で痛い思いをしながら一生を終わって行くといったようなことでは、先の世までも持って行けれるということは、例えば話に聞いてもあいまいなものにしかなって来ない。
あの世にも持って行かれりゃ、この世にも残しておけるということ。なるほど、これならば持って行けるだろう。これならば、残しておけるだろうという確信に満ちた生活をです、私は日々、ね、自分の心の上に、また形のおかげの上にです現して行く、実証して行く生活を願わなければいけないということ。
せっかく信心修行させて頂くのですからです、ね、そういうことを分からせてももらい、体得させて頂くことのためにです、信心があり、修行があるということにならなければいけんのです。末の世までも持って行かれるのは神徳。私は今日、その泰子のことの( )、これを、まちっと上手に書いたら、本当にこれが屋形船に見えるんです。ね。このてんてんのところが素晴らしいでしょう。
その赤い提灯が四つ下がってるとが、川間にこう映っておる。それが、こうね、船。ね。無の船と、徳の船に乗らせて頂いてのおかげ。この夏期修行が始まる初日の日、北野の秋山さんが、もうそれこそ、みんな若い人達がもう一生懸命での御祈念をする。
まあ、言うならば、まあ、見苦しかと思うくらいにある。こうこうやってから、よすってから一生懸命やってから。だから、私だけなっとん、今度の修行は静かな静かな御祈念をさせてもらおうと思うたげな。そしたら御神眼にね、バスが止まって沢山な人がそれに乗っておる。それから、自分も乗ろうと思ったら、パタッと、そのバスのね、扉を閉められたところを頂いたそうです。
いやあ、ほんにこげなことを思うて、相済まんことじゃったと思うて、私は今度の夏の、あの2~3日前のあの御理解を頂いた日にお届けするんです。もう、確かに合楽全体が一生懸命になっとる時には、皆さんも一生懸命になっとらなければです、その徳のバスに乗れないです。ね。皆が一生懸命しよるとが、ちった見苦しかごとある、おかしか。だから、私は静かにしようと思うたら、乗ろうと思うバスに皆が乗ったけれども、パタッとこう、もう自分が乗るという段になったら、バスの扉が閉まったと言う。
はあ、こげなことじゃいけん、乗り遅れちゃいけんと思うて、まあ、一生懸命、今日の親先生の御理解を頂いて、私はそういう意味合いでおかげ頂いて、初日から一生懸命ご祈念させて頂いたというお届けをしました。ね。ですから、私が頂いておる、もし、なら、車なら車、徳の船なら徳の船というものを持っておるなら、これに便乗させてもらえれるおかげを頂くためにはね、私と交流するものがなからにゃいけんでしょう。私が水なら皆さんも水にならにゃいけんです。ね。そうでしょうが。ね。
私が砂糖なら、皆さんも砂糖にならなければ、塩と砂糖では合わんのです。甘辛うなるです。ね。私が水であり、皆さんが油であるならば、水と油では合わんでしょう。ね。そこで、なら、親先生の心の状態というものをいつも目当てにして、ね、私が水なら本気で自分も水になろうという、その精進こそです、同じ徳の船に乗れ、同じ車に乗れる。
椛目合楽があげて一生懸命の時には、私も及ばずながら一生懸命というもんでなからなければいけないことも分かりますですね。どうぞ一つ、あの世までも持って行かれるのは、神徳じゃ。今日は、この世にも残るということは、もう、日々の実証によって、一つ体験してもらいたいと思う。あの世ちゅうことは分かりません。けれどもです、ね、自分の魂が清められて行ってです、ね、いつも自分の心が円満でにこやかであるならばです、ね、そういう心をそのまま、あちらへ持って行くことが出けて、私の便乗しておる船に乗せて頂けれるおかげが受けられるんだと、確信の出来るくらいな一つ信心修行して頂きたいですね。どうぞ。